マービート君のなんでも掲示板
無題
- dra. Natividad (女性) URL
2025/06/22 (Sun) 02:43:24
Si no haces seguimiento médico, podrías estar ignorando algo importante.
無題
- dra. Begoña (男性) URL
2025/06/22 (Sun) 00:31:43
Muchas enfermedades se descubren a tiempo con una simple radiografía.
Brian - マービート (男性)
2025/06/13 (Fri) 05:18:32
遂にこのときが来てしまいました…
去年にメリンダさんが亡くなった直後からブライアンは明らかに衰えていました。
その後は親族に囲まれて穏やかに暮らしていたようで少し安心していたけれど…
ブライアンは認知症を患っていながら、それでも音楽に対する感性だけは衰えていなかったそうですね。
つい最近にはレコーディングスタジオで撮られた元気そうな写真までありました。
もしかすると再び何かやってくれるのか...とさえ思っていました。
昨夜のニュースステーションで3分近くブライアンの追悼ニュースが流れました。
どんなに信じたくなくても、これは現実なんだ…とそのとき身に染みて思いました。
そして同じニュースの中で世界中で起きている悲しい事故や忌まわしい事件の映像を見ました。
カリフォルニアでの暴動もあちこちに飛び火しています。
ずっと涙は出なかったけどブライアンの歌っていたラヴ・アンド・マーシーを思い出してどうしようもなく泣けてきた…
ブライアンの残してくれた歌や音楽はやっぱり今も生きているんだなぁ…
ブライアンが亡くなっても音楽でいつも会えます。
今まで以上に存在を身近に感じます。
Derek & The Dominos - Roll it Over - マービート (男性)
2025/01/26 (Sun) 05:01:48
自由気ままな風来坊デイヴ・メイスン。
日本大好きエリック・クラプトン。
二人は同世代の英国人で名ギタリスト。
ヴォーカリスト、ソングライターとしても魅力的な似た者同士。
デイヴ・メイスンはあのデレク&ザ・ドミノスの結成当初のメンバーでエリック・クラプトンと双璧を成す花形ギタリストとしてステージで活躍していました。
(しかし元来の放浪癖により、あっという間に脱退してしまいます。)(≧∇≦)
今回はそんな二人が在籍したデレク&ザ・ドミノスに絡んだあれやこれやの戯言です。
1970年6月
デラニー&ボニーのバックバンドとして共演していたエリック・クラプトン、デイヴ・メイスン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンの5人。
彼等は同じくデラニー&ボニーのライヴで共演経験があるジョージ・ハリスンの依頼を受けてアルバム『All Things Must Pass』のレコーディングに参加しました。
このときの再会で意気投合した5人はスーパーバンド、デレク&ザ・ドミノスを結成。
『All Things Must Pass』のセッションの合間を縫ってアップルスタジオで”Tell The Truth”、”Roll It Over”の2曲をレコーディングしました。
エリック・クラプトンの希望により両曲共にフィル・スペクターがプロデュース。
ジョージ・ハリスンも特別参加で”Tell The Truth”でエレクトリックギターを弾き、
”Roll It Over”ではスライドギターとバックヴォーカルを披露しています。
そのときレコーディングした2曲はデレク&ザ・ドミノスのデビューシングル
A面 ”Tell The Truth”/ B面 ”Roll It Over”としてリリースされました。
しかし「”Tell The Truth”のテンポが性急すぎて歌詞が空回りして聴こえる」という何を今さらなバンド側のクレームによって発売中止になっています。
そんな無茶が容認された理由はレコード会社の管理者ロバート・スティグウッドがデレク&ザ・ドミノスのマネージャーを兼任していたことが大きかったようです。
このシングルはデレク&ザ・ドミノスの幻のデビューレコードとして今もってマニアから注目されています。
デイヴ・メイスンの脱退後、デレク&ザ・ドミノスは暫定的にメンバーになったデュアン・オールマンと名プロデューサーのトム・ダウトを迎えて”Tell The Truth”を再レコーディング。
アルバム『 Layla and Other Assorted Love Songs』に収録しています。
Tell The Truth (2nd Version)
お蔵入りは免れないだろうと思われたフィル・スペクター版 ”Tell The Truth”は1972年発売のエリック・クラプトンの2枚組ベストアルバム『History Of ERIC CLAPTON』に堂々と収録されました。
この転んでもただでは起き上がらないしたたかさ、流石はロバート・スティグウッドというべきか。(≧∇≦)
あるいはエリック・クラプトン自身も言うほど嫌っていなかったのかもしれません。
実際、当初の ”Tell The Truth”にはアイク&ティナ・ターナーの”River Deep, Mountain High”を彷彿とさせる野獣のような熱いグルーヴがありました。
抑えきれない情熱がレコードからほとばしるようなバージョンでした。
フィル・スペクターは素晴らしい仕事をしたのに不運でした。
Tell The Truth (1st Version)
とばっちりを受けたB面曲 “Roll It Over” はデレク&ザ・ドミノスのライヴ、エリック・クラプトンのソロライヴの両方で演奏されている彼等にとってもお気に入りの一曲。
しかし長年に渡ってスタジオ音源は未発表でした。
そんな状況を貪欲な海賊盤業者が見逃すはずもなく、ジョージ・ハリスンが共演している経緯からビートルズのブートレッグに収録されたこともあります。
私自身、学生時代に買った『Four Side of The Circle』というブートレッグでそのスタジオ音源を初めて聴きました。
ただそのブートレッグには “ジョージが参加している”ということしか情報が書いていないのでそれが誰の曲なのか?
誰が歌っているのか?など全くわからず。
ただジョージのものと思われるギターの音色、バックコーラスになんとなくビートルズの面影を感じたような気がしました。
それだけジョージがビートルズの中で果たしていた役割、存在感も大きかったんだなぁ…としみじみ思いました。
そんな感じでジョージをきっかけに聴いているうちに好きになった曲です。
”Roll It Over” には燻し銀のような魅力があります。
フィル・スペクターらしからぬシンプルなプロデュースもクールだし、
デレク&ザ・ドミノスの代名詞、エリック・クラプトンとボビー・ウィットロックのツインボーカルも決まってます。
最後に炸裂するエリック・クラプトンの燃え上がるようなギタープレイもヨシ!!
公式に発表されたのは1988年。
エリック・クラプトンの全キャリアを振り返ったボックスセット『Crossroad』でようやく初収録されました。
Roll it Over
written by Eric Clapton & Bobby Whitlock
Eric Clapton - lead vocal, electric guitar
Bobby Whitlock - keybord, backing vocal
Carl Radle - bass
Jim Gordon - drums
Dave Mason - electric guiter
George Harrison - slide guiter, backing vocal
produced by Phil Spector
released in September, 1970.
この当時のエリック・クラプトンは“Clapton is God”と呼ばれ神格化されている状況、
自分のギタープレイばかり注目されることに辟易していました。
冗長なギターのインプロヴィゼーション(即興演奏)にしても周囲の期待から止むなくやっていたに過ぎません。
そんなことより重要なのは音楽であり、ただその音楽にふさわしい演奏をしたいと願っていました。
レコード会社はそんな意を汲んでデレク&ザ・ドミノスがエリック・クラプトンの在籍するバンドだとは宣伝しませんでした。
その結果、アルバム『 Layla and Other Assorted Love Songs』は期待されたほどの売り上げにならず、
シングルカットした不朽の名曲”Layla”でさえリリース当時はヒットを逃しました。
(但し後半のピアノパートをすべてカットしたエディットバージョンでした。このシングルこそ中途半端で却下されるべきだった。)
さらに音楽を通してパティ・ボイドに伝えようとした熱い思い、愛の告白も実を結ぶことはなく、
たくさんの葛藤の中でエリック・クラプトンは”レイラは死んだ”と嘆きました…
その上、追い討ちをかけるように幼い頃に両親に捨てられた彼を育ててくれた祖父の死去、
特別な親友だったジミ・ヘンドリックスの急死という悲劇も重なりました。
それでも頑張ってデレク&ザ・ドミノスとしての活動を続けていましたが、
1971年10月、デュアン・オールマンのオートバイによる事故死が何もかもを打ち砕きました。
デュアン・オールマンはすでにバンドを離れてはいましたが、エリック・クラプトンにとっては兄弟のような存在でした。
その後、数年に渡ってエリック・クラプトンは酒とドラッグに溺れてしまいます。
これにより制作途中だったセカンドアルバムは完全に破棄されてデレク&ザ・ドミノスは消滅の道を辿りました。
デレク&ザ・ドミノスが存在したのは実質一年足らず。
それでもたくさんの名曲、名演を残してくれたことに感謝したいです。
最後にメンバーのその後と近況について
ドラマーのジム・ゴードンはカリフォルニア出身でハル・ブレインの元で指導を受けてプロのドラマーになっています。
ハル・ブレインとは師弟関係であり、かってはレッキングクルーの一員として活躍していました。
従ってビーチボーイズの印象的なレコーディングセッションに幾つも参加しています。
“I’m Waiting for the Day”では響き渡るティンパニの影でハル・ブレインに変わってドラムを叩きました。
その演奏を聴くといつも嬉しくなります。
“God Only Knows”でパカポコと鳴り響く独創的なパーカッションの音色はジム・ゴードンがプラスティック製オレンジジュースのカップを叩いて出しているものです。
(だからこそよけいに切なく聴こえる… )
”Good Vibrations”のマスターテイクとなったシングルバージョンにはハル・ブレインとジム・ゴードン、二人のドラムパートが混在しています。
ドラムレスの”Cabinessence”ではスティック型タンバリンで参加。
“Who Run the Iron Horse”パートではカンカンと鳴り響く踏切を模したベルの音、
”The Grand Coulee Dam”パートでは神秘的なベルの音色を鳴り響かせています。
他にも“Heroes and Villains”のシングルバージョン、“Fire (Mrs. O'Leary's Cow)”、
“Do You Like Worms”、“Barnyard”、”The Old Master Painter “、“I Wanna Be Around / Friday Night”など...
ジム・ゴードンがビーチボーイズに貢献した曲はたくさんありますが、ドラマーとして最も印象に残る演奏は何と言っても“Fire (Mrs. O'Leary's Cow)”に尽きるでしょう。
あの呪術的で力強いドラミングは曲に魂を吹き込んでいるようでした。
ビーチボーイズに限らず、ジム・ゴードンには有名ミュージシャンとの素晴らしい共演が他にも山ほどあります。
ジョン・レノンやジョージ・ハリスンとの共演も印象的でした。
ドラマーとしてだけでなく”Layla”で弾いた美しいピアノも忘れることができません。
しかし、彼はひそかに心の病に蝕まれ重大な精神疾患を患っていました。
そして1982年、自分の母親を殺してしまうという取り返しのつかない悲劇を起こしてしまいました…
その事件により懲役16年の判決が下されると、カリフォルニアの医療刑務所に収監されています。
悲しいことに刑期が終了しても病いが完全に回復することはなく、
結局そこから一度も解放されることがないまま、2023年に息を引きとりました。
それは41年間にも及ぶ気の遠くなるほど長い収監でした。
享年77歳、ジム・ゴードンの安らかな冥福を願わずにはいられません…
スーパートランプのジョン・ヘリウェルの兄貴のような風貌のベースプレイヤー、
カール・レイドルも凄腕セッションミュージシャンとしてボブ・ディラン、ザ・バンド、レオン・ラッセル、ジョー・コッカーなど多くの有名ミュージシャンと共演しました。
彼はデレク&ザ・ドミノス解散後もメンバーの中で唯一、エリック・クラプトンと良好な関係を保ち続けた人でした。
1970年のソロデビューアルバムから1978年の『Backless』まで、すべてのクラプトンのアルバムのレコーディングに参加しています。
そのことから温厚な性格が偲ばれますが…
彼もまた1980年に37歳という若さでドラッグとアルコールの過剰摂取で急死してしまいました。
エリック・クラプトンと並んでデレク&ザ・ドミノスの中核的存在だったボビー・ウィットロックは元々はソウルミュージックの世界で活躍した人でした。
デレク&ザ・ドミノス解散後はローリング・ストーンズやプラスティック・オノ・バンドのアルバムなどに参加。
その活動と並行して印象的なソロアルバムを幾つも発表しています。
デラニー&ボニーのように奥さんと二人でユニットを組んで『Layla and Other Assorted Love Songs』を再現した興味深いライヴアルバムなどもありました。
嬉しいことに彼は76歳になった今も変わらず元気に活動しています。
風天の風来坊ことデイヴ・メイスン。
過去のトラフィック時代にはジム・ゴードンとは同じバンドメンバーでした。
デイヴ・メイスンはデレク&ザ・ドミノスを脱退後、ソロアーティストとして本格的に活動を開始しました。
その華々しいキャリアは書きあらわすのもしんどいほど…
今回、あえて特筆するとすれば…
去年の夏にビーチボーイズと一緒にジョイントツアーを行ったことです。
これはアメリカ限定のイベントで日本では何ひとつとして話題にも上がりませんでしたが(≧∇≦)
この夢のような共演をぜひ見たかったです。
78歳になった今でもその声の響き、ギターの音色は変わっていません。
今年も変わらず元気に活躍してくれるでしょう。
ビーチボーイズとデイヴ・メイスンには過去に面白い因縁もありました。
それは1979年の青春コメディ映画「Skatetown, U.S.A.」のタイトルソングの座をめぐって密かに競い合ったエピソードです。
デイヴ・メイスンは "Main Theme", "I Fell in Love"というタイトルの2曲を映画会社に提出し、
ビーチボーイズはマイク・ラヴとアル・ジャーディンが共作した未発表曲 ”California Beach”を改作したその名もズバリ”Skatetown, U.S.A.”という曲を提出しました。
選考の結果、タイトルソングに選ばれたのはデイヴ・メイスンの"Main Theme"でした。
映画公開に際して”Main Theme”はタイトルを”Skatetown, U.S.A.”に変更。
競り負けたビーチボーイズの”Skatetown, U.S.A.”の立場はさらに悲しいものになりました。
デイヴ・メイスンはもう一曲の "I Fell in Love"と自身の代表曲のひとつ”Feelin’ Alright”の新録音まで映画に採用されています。
そればかりか本人役で映画自体にも出演するなど、ぶっちぎりの大勝利でした。
かくしてビーチボーイズの手掛けた”Skatetown, U.S.A.”は映画のサウンドトラックに収録されることもなく、
”California Beach”もろとも歴史の闇に葬り去られました… (//∇//)
”California Beach”は2019年にマイク・ラヴがアルバム『12 Sides of Summer』の中でカバーという形で救い出してくれました。
”Skatetown, U.S.A.”についてはこちらの動画で19:34より聴くことができます。
曲のムードはマイク・ラヴとアル・ジャーディンの二人が同じく共作した”It’s a Beautiful Day”のプロトタイプという感じ。
どちらの録音が先なのでしょうか。
”It’s a Beautiful Day”の前だとしたら興味深いし、後だとすれば完全な二番煎じという感じ。(≧∇≦)
再び話を戻します。
前述したようにデレク&ザ・ドミノスの解散後、
エリック・クラプトンは数年に渡って酒とドラッグに溺れていました。
そんな状況を見かねたザ・フーのピート・タウンゼントの呼びかけで集まった音楽仲間たちに支えられて見事にカムバックを果たしましたが、その後もたくさんの悲劇に見舞われています。
奔放過ぎた女性遍歴もその深い悲しみ故だと思えるほどに…
もうすぐ80歳の誕生日を迎えるエリック・クラプトン。
つい先日、1月24日には6年ぶりのスタジオアルバム『Meanwhile』が発売されたばかりです。
今年4月には通算24度目になる来日公演も行ないます。
人生の危機を何度も乗り越えて、今も熱い情熱で進み続けるその姿には感動する他ありません。
『All Things Must Pass』に収録されたApple Jamより
Plug Me In / Thanks For The Pepperoni
1970年7月1日
アビイロード第3スタジオで録音
Eric Clapton : electric guitar
Dave Mason : electric guitar
George Harrison : slide guitar
Carl Radle : bass guitar
Bobby Whitlock : piano
Jim Gordon : drums
結成直後のデレク&ザ・ドミノスとジョージ・ハリスンによる激しいジャムセッション。
真ん中で聴こえるギターがジョージ・ハリスン、右側がデイヴ・メイソン、
そして左側がエリック・クラプトンという布陣。
デイヴ・メイソンとエリック・クラプトンのギターバトルが熱過ぎます。
(デイヴ・メイスンにはもう少しデレク&ザ・ドミノスにいて欲しかった…)(≧∇≦)
おまけ
Good Vibrations
First Bridge:( recorded May 4th, 1966 at Western Studios)
Al Casey and Jerry Cole: rhythm guitars
Paul Tanner: electro-theramin
Al de Lory: tack piano (two)
Jim Gordon: drums, sleigh bells
Frank Capp: bongos with sticks, tambourine
Tommy Morgan: juice harp
Hal Blaine: tambourine
Ray Pohlman: four-string bass
Bill Pitman: six-string bass
Jimmy Bond: upright bass
Bass harmonica: Tommy Morgan
Jay Horn: piccolo
Flute: Jay Migliori
Steve Douglas: tenor flute
Bill Green: bass saxophone
冒頭でブライアンがジム・ゴードンのことを”ジミー”と呼んでるのが聞こえます。
Good Vibrations
Third Verse and Chorus Fade (recorded May 27th, 1966 at Western Studios:)
Carl Wilson: Electric rhythm guitar
Paul Tanner: electro-theramin
Mike Melvoin: piano (2x)
Jim Gordon: drums
Gary Coleman: tympanis, sleighbells
Bill Pitman: 6-string bass
Lyle Ritz: upright bass
Arthur Wright: 4-string bass
Bill Pitman: 6-string bass
Lyle Ritz: upright bass
Emil Richards: vibraphone
Plas Johnson & Jim horn: piccolos
Steve Douglas: flute, tambourine
Jay Migliori: flute
水谷麻里 - 春休み - マービート (男性)
2024/07/22 (Mon) 01:13:50
知名度はイマイチ低いけど好きな人はとことん好き。
そんなアイドル歌手についての戯言。
1986年10月
新人アイドルの登竜門「ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に総勢約55.000人の少女達が参加しました。
各都道府県で行われた地方予選を勝ち抜いて最終候補に選ばれた中には、若き日の酒井法子と畠田理恵の二人の姿もありました。
決勝大会の舞台は中野サンプラザ。最終審査は特技を披露すること。
ある者はドラムを叩き、ある者は流暢に落語を話すなど、誰もが一生懸命に自分をアピールしていました。
しかし、そんな緊迫した戦いの中に混じってしまった場違いな少女がひとり。
その少女は最終審査のステージでニコニコ笑って立っているだけでした。
しばらく経って小泉今日子と堀ちえみのドラマの物まねを少しやったかと思うと、
今度は思い出したようにカラスの鳴きまねをやります!と力強く宣言。
そして緊張感が張りつめた会場に拍子抜けするようなカラスの鳴き声が響き渡りました。
その瞬間、それまでずっと険しい表情でステージを見ていた審査委員長(サンミュージックの相沢社長)は体を二つに折って笑い転げてしまいました。
他の審査員も衝撃を受けたようです。
真剣勝負の大舞台でそのパフォーマンスは大胆不敵でシュールでした。
それもそのはず、その少女は従姉妹(いとこ)に勝手に写真を送られてやむなくコンテストに参加していただけでした。
しかし、その少女にはアイドルとしての天性の素養、隠しきれない眩しいオーラがありました。
その結果、わらしべ長者のようにあれよあれよとグランプリに輝いてしまいました。
そんなわけで本来であれば感動のフィナーレとなる表彰式でも少女の感想は嬉しいというより戸惑いながら「どうしよう… 恥ずかしいです…」
(そう言われて負けた人達はもっと恥ずかしかったと思う…)
正式に歌手としてデビューが決まると「私みたいなのを出して会社がつぶれても知らないよ」とさらにしっちゃかめっちゃか。
言動も行動も自由奔放、これほど風変わりでユニークな新人アイドルはかっていませんでした。
その少女は水谷麻里という名前でデビューしました。
活動したのは1986年から1988年。
短命ながらその間にシングル7枚、アルバム3枚、未発表曲を含むベストアルバム1枚を残しました。
デビューシングルからサードシングルまではヒットソング請負い人、筒美京平と松本隆のゴールデンコンビが手掛けました。
両巨匠はレコーディングスタジオにも駆けつけて直接アドバイスを送るなど、
水谷麻里はアイドル歌手としてこれ以上ない順調満帆のスタートを切っています。
人気が軌道に乗ると、その掴み所のないキャラクターに合わせて楽曲も不思議路線にシフトチェンジ。
狙いは功を奏して新しいファンも獲得しました。
キャリアを通してヒットチャートのトップ10に4曲がランクインしています。(最高は9位)
現役当時は音楽だけでなく映画にドラマにCM出演とその勢いはホップ・ステップ・ジャンプ!!という感じでした。
前途はどこまでも光り輝いているように思えました。
しかし、水谷麻里の所属する音楽事務所サンミュージックには切実な裏事情がありました。
当時、サンミュージックを牽引してきた松田聖子は結婚し、妊娠と出産でアイドルとしては第一線を退いた状態でした。
さらに松田聖子に変わる花形アイドルとして期待されて頑張っていた岡田有希子はみずから命を絶っていました...
(水谷麻里のデビューシングル発売直後のことでした。)
サンミュージックを取り巻く状況は大変重苦しく、そんな状況から立ち上がるために新たな希望となるアイドルを社運を賭けて必要としていたのです。
しかし水谷麻里は早すぎたアイドルと言うべきか、一定の人気はあっても期待されたような大きなブレイクまでは起こせませんでした。
その当時には「もっと自覚を持ちなさい」という叱咤激励を尊敬する大先輩の松田聖子からもらったそうです。
しかし一生懸命頑張っても、かけられた大きすぎる期待に応えきれないこと、
さらに自分に不釣り合いな仕事、痛々しい水着写真集の発売などに疑問を感じて徐々に芸能活動に興味を失っていったようでした…
この頃から元気そうに歌っていても、ふと寂しそうな表情を見せることが多くなっていました。
芸能界は元より厳しい弱肉強食の世界です。
サンミュージックは少し遅れてデビューさせていた酒井法子にプロモーションの軸足を移すようになりました。
そして1988年3月
始まりが唐突ならば、終わりも同じように突然でした。
「これから長い春休みに入ります。」と水谷麻里は突然の休養宣言を出してしまいました。
そして最後にトリプルクロスカウンターのような強力なラストシングルを発表します。
“春休み”
作曲 / 平井夏美 作詞 / サエキけんぞう 編曲 / 川上了
1988年3月2日発売
休養宣言とリンクする形で発売されたシングルナンバー。
その後、正式なコメントもなく芸能界を引退してしまうので事実上のラストソングです。
当時のレコードの売り上げはたった4.000枚。
チャートも最高80位。
間違いなくプロモートが足りなかったのでしょう。
水谷麻里のキャリアでも最低の寂しい結果になりました。
私はこの新曲を車の運転中に聴きました。
何気なく流していたラジオ番組で”この曲をもって水谷麻里はしばらく休養する”と聞かされて一瞬、目の前が真っ暗になりました。
それが休養じゃなく本当の別れになるだろう...となんとなく思ったからです。
突然の知らせに茫然としている中、続いて曲が流れ始めると今度はその素晴らしさに目眩がしました。
水谷麻里の残した曲に名曲はたくさんありますが、この曲は文句なしに最高傑作でした。
それなのにこれで”さようなら”ってどう受け止めればいいのか?
心では泣いているのに嬉しい、嬉しいけど悲しい...
この曲から感じる高揚感と哀愁を合わせ持った独特のグルーヴは奇しくもそんな何とも言えない気持ちにもぴったり合っていました。
今でも”春休み”のメロディを聴くたび、そのときのドキッとした気持ちが甦ります。
聴こえてきた歌詞にもビリビリきました。
キャンディーズの”微笑がえし”のように、過去の曲のキーワードが幾つか使われていたからです。
そしてラスト近くには”バイバイ!”とファンに向けた最後のメッセージ。
これ以上は考えられない素晴らしい幕引きでした。
世の中には特別な思いを抱くラストソングがたくさんあります。
ビートルズ ”ジ・エンド”、ビーチボーイズ ”サマーズ・ゴーン”、10cc ”ドント・ハング・アップ”、
美空ひばり ”川のながれのように” クィーン “ショー・マスト・ゴー・オン”、
少し意味合いは違いますがベートーヴェンの”交響曲第9番”…
”春休み”も同じように特別なラストソングになりました。
作詞をしたサエキけんぞうは水谷麻里のお気に入りミュージャンで過去のアルバムでも幾つか参加していました。
最後に最高の仕事をしてくれたことに感謝したいです。
もうひとり、語らなければいけない人物は作曲者の平井夏美。
“平井夏美”というのは変名でその正体は音楽プロデューサー兼作曲家の川原伸司です。
平井夏美という名前は深い親交がある大瀧詠一と一緒に考えて決めたそうで筒美京平に対するオマージュを含んでいるのだそうです。
川原氏は1966年のビーチボーイズの来日公演を観ている筋金入りのビーチボーイズファンとしても知られています。
あのピンクレディーの”波乗りパイレーツ(USAバージョン)”のコーラスにビーチボーイズを招く提案をした張本人であり、当時のレコーディング現場にも立ち会われていた人物です。
少し話は逸れますが、”波乗りパイレーツ(USAバージョン)”の録音は正式なスタジオではなくマイク・ラヴの自宅の部屋にマイクロフォン1本だけを置いて行われたものだったそうです。
川原氏はみずからの著書でこんな風に振りかえられています。
「絶対来ないだろうと思っていたブライアンが現れてとても驚いた。
しかし、こちらも仕事で来ている以上、ファンなんですと言うこともできなかった。
ブライアン、マイク、カール、ブルースの4人が一本のマイクロフォンを囲んでコーラスを歌い出すと、それだけであの見事なビーチボーイズのハーモニーが生まれた。
それぞれが歌うパートを全部聴き分けた上で、さらに自分のパートを冷静に歌って溶け込まさなければああいうハーモニーにならないだろう...
それをエフェクトもイコライジングも使わず譜面すらなしで易々とやってのけたビーチボーイズには同じミュージャンとしてどうしようもできない才能の差を感じた...」と。
川原氏は別名義でポール・マッカートニーとブライアン・ウィルソンを合わせた”Paul Wilson”と名乗って活動したこともありました。
大変興味深い経歴を持った方です。
”春休み”で聴こえるブライアン・ウィルソン風コーラスはまさに川原氏の真骨頂!
それに「アビイ・ロード」で聴かれるようなジョージ・マーティンを彷彿とさせる流麗なストリングスのアレンジも最高です。
ビーチボーイズとジョージ・マーティンの融合と言ったら言い過ぎですが、そういう面で捉えても斬新な一曲だと思っています。
川原氏が平井夏美名義で関わった曲には、松田聖子の”瑠璃色の地球”、井上陽水と共作した”少年時代”など超弩級の名曲が並びます。
それにくらべて水谷麻里の”春休み”は大きな話題に上がることも誰かにカバーされることもありません。
しかし、それらと同じように素晴らしい曲です。
卒業や春をイメージさせる曲としてもスタンダードになりうる魅力があると思います。
水谷麻里の芸能生活は短いですが濃厚で充実していました。
デビューの成り行きを考えたら本当によくやったなぁと思います。
私は彼女のキャラクター、声、歌い方のアクセントが大好きでデビュー当時からリアルタイムで追いかけていました。
休養宣言の後、漫画家の江口寿史と結婚したと知った時は布団を被って寝込みたい気分でした。
もう新曲が聴けないことが寂しかったし、二度とあの元気な姿を見れないと思うと絶望的な気分にもなりました。
そして引退前に小出しに発表された楽曲がどれも感動的だったこと...
それらを4枚目のアルバムとして発展させていればどれほどの名作になっただろうかと未だに夢想することがあります。
今でもこの曲を水谷麻里が歌ってくれたら、もっと似合うだろうなぁ...なんて思うことがよくあります。
私にとっては何があろうと永遠にナンバー1のアイドル歌手です。